日々の学びや気づきを綴った不定期日誌
2005年帰国する直前に創ったもの
昔、あるところに、小さな、小さな生き物がいました。
彼は、あっち、こっちに行くことができましたが、手と、足がありませんでした。
あるとき、砂の中に埋もれてる小さく光るものを見つけました。彼は、毎日そこを通るたんび、それが何なのか、気になって、気になって仕方ありませんでした。
彼は、生まれてはじめて「手がほしい」と思いました。
砂に埋もれた光を感じたいと、思いました。
毎日、毎日彼は、想いました。
ある朝、暖かい光を感じて目がさめた彼は、自分のからだに両手があるのを感じて、心のそこから喜んで、早速、砂に埋もれた光をとりに行きました。
砂に埋もれたその光は、はんぶん光で、はんぶん闇の、彼の生まれた場所でした。
それから、幾日か経って、彼は、大きな木を見つけました。
緑色に身を包み、ゆれるその姿にうっとりした彼は、この木に登ってみたいと思いました。
彼は、生まれてはじめて「足がほしい」と思いました。
大きく揺れるその姿を見ながら、大木からの景色を何日も、何日も思いました。
ある朝、暖かい光を感じて目が覚めた彼は、自分のからだに両足があるのを感じました。
両手両足を使いその大木の上へ、上へと登っていきました。
彼は、同じ世界の違う景色を心から楽しみました。
それから幾日か経って、彼は、世界がどこまで続いているのか、「世界の終わり」を見てみたいと思いました。
彼は、両手、両足を使って、まっすぐ、ただ、まっすぐ、進んでいきました。
どれくらいでしょう。どれくらい経ったのでしょう。生まれた場所を昨日、旅立ったような気もするし、何年も前のような気もします。しかし、いつまで経っても、一向に、世界の終わりには、近づけません。
両手、両足、心も、ぼろぼろになった彼は、あおむけになってねっころがり、ゆらゆらゆれる景色をしばらく見つめて、心のままに目を閉じました。
どのくらい経ったでしょう。暖かい光を感じます。
どこからでしょう。彼は、体が浮くのを感じました。
そして、そのまま、感じるままに、上へ、上へと向かっていきました。
かおを何かが撫でてくれます。それは、やわらかな風でした。
かぜの向こうを見渡すと、そこには、きらきら輝く満天の星空がありました。
彼は、思いました。
「世界に、終わりはないんだ・・・・・。」
心がうれしくなった彼は、言葉に、想いをのせました。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
「ツゥ~・トォ~・ラァ~・ブゥ~………ラァ~トォ~ツゥ~。」
彼は「かえる」といいました。
蝿の王
旧約聖書に「蝿の王」が出てきます。 悪魔の王なのですが、
なぜ「蝿」なのか?「コウモリの王」とか「暗黒の王」の方が、なんとなくイメージは追いつきやすいのですが。。。なぜか「蝿の王」です。
今回、その謎と遊んでみようと思います。
最近、少し、面白い見方を獲得しました。
「『知覚できるもの。』は、絶対的にそこに存在する。」これは、納得しやすいです。
ところが、
「『知覚できるもの』は、そこにはない。」という考え方です。
随分と、突拍子もないですが、突拍子のない事であれば、あるほど、私は理解力を働かせねばならないので、そういったことは、私の理解力を育んでくれます♫
なので、考えてみる。
「知覚するものは絶対的に存在する。」そして、このアプローチが積み重なると、自分の中にある感情や記憶も、絶対化しやすいです。
そして、それが対象に対してまるで、名前を貼り付けるように、目の前の対象を定義付ます。
きっとこの行為は、「良い」とか「悪い」ということではなくて、こうしてないと地上で生きてゆくのは大変だからでしょう。
(まぁ、人生は、この側面だけで、できていないんですけどね。)
人生を生きていると、いろんな事に、また、いろんな人に出逢います。
その過程で、「痛み」や「不安」、「悲しみ」や「嫌悪」を持つ時もあります。(もちろん、「喜び」や「幸せ」もあります。)
そういった経験からくる自らの感情を、まるで、そこに物質があるような感覚で眺めてしまうと、その「悲しみ」や「不安」は絶対化するので、本人は、だいぶ辛いと思います。
(ちなみに、「幸せ」や「喜び」を絶対化すると、「期待」や「妄想」に飲み込まれやすいです。)
ただ、今回、出会った考え方によると、私が生きてる人生において、何かしら起きるにしても、何かしらそこにあるとしても、「それは、ない。」という考え方です。
どういうことでしょう???
もし、そうなると、、、、もし、それが、そこにないものだとしたら、どこにあるのか?
感じるのは確かだし、認識もできるので。
。。。。と、いう事で、
それはきっと、自分が(それぞれが)造っているものたちなのです。
この考えに賛否両論あって、(いや、「否」の方が多いでしょうが、)当然なのですが、上記のように考えてみます。「蝿」の理解のために。。。
(そして、、今日は、ここまで。)
はい。 今日になりました。 話を続けます。
対象に対する認識や感情は個人の中にあって、世界にはない。という考え方です。
これは極端で、面白い考え方です。 私が認識できないものを「ない」と呼ばなくて良い、在り方です。 マックス「わからない」でしょうね。
そうなってくると、私たちがあらゆる対象に対して持っている認識や理解を一つにしてしまったり、固定化すると、どんどん世界は閉じられたものになってゆきます。 これは、物質化と呼んでもいいように思います。
不思議にも自分自身にもそれを行うので、どんどんその人は、自分に何もできない。と、思い込みます。自分は変われない。でもいいです。
元々、自然界では、物質化、顕現化というのは、可能性が方向性を持ち、役割を得てそれが死滅へのプロセスを歩み始めた状態の時に現れる現象です。
そしてその死滅や破壊は、また次なる可能性の蓄積となります。
そして、その次なる可能性に進めなくさせるのが、内面で生じる、硬化、物質化、絶対化です。 成長がなくなりますので。
仮にその行為を悪魔的と考えたとしましょう。
あらゆるものには、さまざまな側面や可能性があるにもかかわらず、それを一面化、絶対化する動きです。
さぁ、そこで、「蝿」です。
例えばここに何か「物」があって、それに蝿が群がっていたとします。
するとその人は、その物を「悪いもの」と判断します。
たとえそれが、「薬」出会っても、蝿が群がっていたら、それを悪いものと判断しがちです。
これも一つの考え方(蝿による「これは、悪いもの」)ですが、ポイントは、今、私がした判断から、動く事が全くできなくなる。ということ。この判断以外を受け付けようとしなくなる事です。
そして、もう一つは、その対象である「物」から、その「物」の判断をするのではなく、そのものではない対象の「蝿」により、その「物」を醜悪なものと判断する。そして、それを操る事ができるのが、「蝿の王」です。
だいぶ怖い悪魔が生まれた感じがします。
悪の王が蝿の王と呼ばれるのが、なんとなく、理解できたような気がします。
自然の中での物質化はその中に破壊や破滅を引き受け、次なる可能性に向けての栄養となれます。
しかし、人間の内面においては、私が神であり、私が自然を統治するものなので、私が、それを意識的に行うことをしなければ、硬化したイメージは、次なる可能性へと向かうことはないのです。
私が、自由という力を使って、それを行えるのです。
ただ、悪魔に支配されてしまうと、それができるとは、全く思いません。
閉じ込める力、進化、発展させず、停滞を永遠と思わせる力。
確かに、悪魔的な感じがします。
さすが、「悪の王」です。
最後に、(これも聖書に載っていた話ですが、あれ?福音書だったかな?)
まぁ、いいや。
人には、こんな可能性もあるのだというお話をして終わりたいと思います。
。
。
。
。
キリスト弟子と共にローマへ向かう道すがら、腐った犬の死骸と出会ったそうです。
その時、弟子を含めた周りの人は、蠅が群がりウジのわくその死骸を、忌み嫌い、迷惑そうに蔑むような目で、その死骸を避けながら、歩いていたそうです。
しかし、キリストは、その犬の死骸の歯並びの美しさに感動し、その場でそれを讃えるための歌を歌ったのです。
これは、悪臭を放ち、見るに耐えない醜悪なものがそこにあっったとしても、その同一存在の中にある美しいものを否定する要素にはならない。というメッセージのように思います。
悪魔とは違ったまなざしですね。
以上。「蝿の王」について考えてみました。
私も含め、私の可能性に向けて、のんびり考えていただけたらと、思います。
「私で在る」
私はいつでも私でいたい
だって私は唯一なので
ところが、私はとても自由で寂しがりやなので
いろんなものと一つになりたがる
怒り 悲しみ 享楽 心配 不利益 爆笑 寂しさ 勝利 安心…
その都度
私が消えてしまう
眠りこけて 夢を見て 不自然な妄想世界を必死に生きる
私が必死になった時
私が私の前から消えてしまう
必死な私をみてられない
私が私を肯定するのは
素敵な部分でも 独りよがりの部分でも 認められたい部分でも
美しい部分でも ポジティブな部分でもない
私が肯定するのは
部分ではなく全部
「いい」「悪い」を超えた
全部
・
・
・
「うん。うん。へぇ〜。。。。。。。。本当に?」
「そっかぁ。。そうだったんだ。。。うん。うん。」
「なるほどぉ。。。。うん。いいよ♪大丈夫。ちゃんとわかってるから。」
そう言って私の全部を理解して微笑んでくれる私を消さないために
私は私を決めつけない
「私が在る」と言えるのは、そのこが私をいつも見ていてくれるから
だから私は私を決めつけない
只々 知ってゆくだけ
今日もわからないことがあった。納得できないことがあった。
私がいう
「そうかい。じゃぁ、旅の準備を始めよう♪」
「起きること」「眠ること」
私の身体が起きていても
私が起きてるわけではない
私の身体が寝ている時だけが
私が眠る時ではない
私が寝ている時
私が聞いたその考えを
私の理解が形を変える
私がわかるために
私をわかってもらうために
私の言いたい考えは
あなたとの間で
いつしか表現でなく
私が勝つための兵士となる
私が寝ている時
私はあなたを見ない
夢の中のあなたを見る
夢の動きを追いかけて
理由もわからず
足掻き始める
あなたを変えることだけが
夢の成就ですから
私が目覚めた時
私がこれらをしていることに気づく
そして
どうすれば良いのかを考え始めた時
また私は眠りにつく
覚書
痛みや悲しみは
その人から可能性と希望を
取り上げるためにあるのではない
だから
悲しみや痛みとのつながりを避けなくていいのです
味わうことで
私が何を愛していたのか
ちゃんと思い出せ
そして
痛みや悲しみが
痛みや悲しみとの共存による幸せの道を
ちゃんと教えてくれます
ただ
それでも辛さが増すときは
どうか私を尋ねてください
その人にとって最高の教義は
今日一日
私が何をして
私が何に支配されたのかを
知りさえすればいい
最高の理解とは
私が愛してやまない
頼りにしている知識を
手放した先にある
それが幸せであれ、美しさであれ
あなたがその奴隷になって良い理由はない
そして
それらから自由になった奴隷が一番頼りにするのが
自分自身である
私はあなたから学ぼうと思ったが
哀れんで欲しかったわけではない
そして私が悲しいのは
あなたが
私がそう思っていることに一向に気付かず
得意げに
批判と否定とアドバイスを
話すだけの人になってしまったことだ
なぜ、あなたは、「寛大さ」と「聞くこと」を犠牲にしてまで
そんなものを手に入れようとしたのでしょうか
その理由を考えた時
やましいものしか出てこないのは
私の未熟さであると想いたい
運と縁との調和について
あらゆる関係性において、あなたができることは、半分までだと、知ってますか?
自分の手の及ばないところにコントロールを求めることは完全さへの渇望や、支配欲が見せる、まやかしであり、誘惑です。
人生を思い通りにしたい。とか、誰かに対して私の思うようにしてほしい。そのように思う時、その人は、自分にとって都合の良い世界を頑なに信じているのでしょう。
だからこういう人は、世界が発する縁とか運とかそういったエネルギーと調和を保つことが難しい。一人で全部を賄おう(支配)とするので。それら縁や、運が活躍しようとする機会を私の支配欲が侵食してしまうのです。
それとは違った「運」と「縁」を友達に、調和を奏でたい人は、自分が何を求めて、自分が何を遠ざけたいかの根拠をちゃんと知っていて、私の衝動に詳しく、自分の言いたいことや、愛する知識を持ちながら、私が理解できない新たな立場を決めつけることなく、時には知識を手放して理解を使い、学んでゆく。
また、理解の及ばないときは、ただ「待つこと」を選ぶ。
学びの際にも、表現の際にも、慎ましさや謙虚さの雰囲気を纏う。
そして、世界と仲良しに♫
完璧や最高でなくとも
あなたの何かが及ばないとしても
それは劣っていることではない
あなたの何かが「最高」でなくとも
捨て去ることをしなくていい
安心していい
その為に「不完全」には「成長」が組み込まれている
あなたの努力が住む場所は
いつだって「最高」と「最低」を使い分けることのできる
成長というステージです
だから安心して
愛するそれを続けなさい
それは無くならない
休むこと、離れることはあっても
決してなくならない
あなたが立ち上がれば、いつだって
そこは「成長」のステージです
私へと向かう私
あなたの目的は私を責めること
私はその攻めに支配されないよう味わうこと
あなたの目的は私を無視すること
私はその孤独の中であなたの成長を願うこと
あなたの目的は私を私を殺すこと
私は死を心地良く迎えられるよう過ごすこと
あなたの目的は私に愛されること
私は自らの愛の枯渇に配慮すること
あなたが何をしようが、私はそれを受け止めて
それでも私は、私で在れる
だから安心して
あなたはあなたの声を大事に聞いて
声の生まれた場所を訪ねてみて
きっとそこには
猛毒に囲まれ幸せを諦めかけたあなたが泣いている
知らせてあげて
この泣く力は
叫ぶ力に
きっとあなたの声に
そして必ずあなたの唄に進化する
そのうたを心から待ってる人がいる
人生という舞台もちゃんと待っている
だから
たくさん聞いて
うん。いいよ
城壁の外
私は何かを選ぶ
私以外の何かによって定義づけられた選択肢を疑いもせず
選択しかないと思い込み
辛さの中を生きることのできる自分を忘れ去り
成功の満足感や他人任せの無責任な賞賛が成長を欲望へと変化させ
失うことへの恐怖を増幅させるのに
奪われない。脅かされない鉄の城壁の中で永遠を生きようとする
「絶対」という口癖と共に私の内面が死を迎える
愚か者と幼子だけがその城壁から外へ出る
不幸と辛さが待ち構える外界へと
愚か者は躍るように不幸と辛さの友人になりながら
幼子は全てを糧に彼らを学び遂には彼らを先生にして
他人や世間の決めた価値を理解しながらも、愛することはあれど
決してそれに服従することはなく
彼らは徳の道を歩む
誰かの価値で道を閉ざしたものよ
絶対的な城壁の中から
愚か者と幼子を笑うがいい
それで間違いないと誰かが言ってくれるだろう
城壁から見下すことで価値を感じるものよ
安らかに死んだ豊かさに囲まれながら
愚か者と幼子を蔑むがいい
君は間違っていないと他人が認めてくれるだろう
ただ不幸にも、あなたが笑い蔑む愚か者と幼子は胸を張り
あなたの目を見て言うだろう
いつまでも見下してるんじゃねぇぞ…
愛しちゃうぞ
コノヤロウ
悪と共に
人の中には、いろんな部分があるものです。
時には、「悪」と呼ばれる部分も存在します。
「かまってほしい」
「人よりも優位に立ちたい」
「他人を支配したい」
「盛り上がるなら嘘をついてもいい」
「馬鹿にされたくない」
「傷つくなら、傷つけるほうがいい」
「すごい!と言われる、でかいことをしたい」
「俺は特別な人間」
「どうなってもいい」
「死んでもかまわない」
「嫌なことはなおさらだし、何もしたくない」
まぁ。。。。出てくるものです。 私の中にもたっぷりです。
そういった部分が見えない人。もしくは、無い人を人を、「善良な人」と、いうのでしょうか。
そうなると、私はかなりの悪人ですね。。。。先に書いたことは、ここ最近のカウンセリングで聞いた、声ですが、どうやら、私の中にも全部、ありそうです。
確かに、そういった悪めいたものがない人を「善良」と読んでいいように思います。
ただ、「善良」の条件はそれだけではないように思います。
自らの中に「悪」があることを知って、それら「悪」の叫びを受け止め、彼らの願いを叶えるために「らしさ」と「美しさ」を使った方法で、彼らの願いを叶える。
その時、その人は、「善良である。」という先の人の立場とは違い、「善良を獲得した人」であるのでしょう。
どうやら、私は、私の中に悪があるので、そちらを目指そうと思います。
悪よ安心してくれ
君が叫んだ想いを私は拾ってゆこう
暗い場所で気付かせてくれた私の道を
君が妬んだ美しさを愛でつつ
それが捨てざるをえなかった憧れであったことを思い出しながら
時に休み
時に脇道へと
「らしさ」の歌とともに
完全なる自由のために
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