「起きること」「眠ること」
私の身体が起きていても
私が起きてるわけではない
私の身体が寝ている時だけが
私が眠る時ではない
私が寝ている時
私が聞いたその考えを
私の理解が形を変える
私がわかるために
私をわかってもらうために
私の言いたい考えは
あなたとの間で
いつしか表現でなく
私が勝つための兵士となる
私が寝ている時
私はあなたを見ない
夢の中のあなたを見る
夢の動きを追いかけて
理由もわからず
足掻き始める
あなたを変えることだけが
夢の成就ですから
私が目覚めた時
私がこれらをしていることに気づく
そして
どうすれば良いのかを考え始めた時
また私は眠りにつく
覚書
痛みや悲しみは
その人から可能性と希望を
取り上げるためにあるのではない
だから
悲しみや痛みとのつながりを避けなくていいのです
味わうことで
私が何を愛していたのか
ちゃんと思い出せ
そして
痛みや悲しみが
痛みや悲しみとの共存による幸せの道を
ちゃんと教えてくれます
ただ
それでも辛さが増すときは
どうか私を尋ねてください
その人にとって最高の教義は
今日一日
私が何をして
私が何に支配されたのかを
知りさえすればいい
最高の理解とは
私が愛してやまない
頼りにしている知識を
手放した先にある
それが幸せであれ、美しさであれ
あなたがその奴隷になって良い理由はない
そして
それらから自由になった奴隷が一番頼りにするのが
自分自身である
私はあなたから学ぼうと思ったが
哀れんで欲しかったわけではない
そして私が悲しいのは
あなたが
私がそう思っていることに一向に気付かず
得意げに
批判と否定とアドバイスを
話すだけの人になってしまったことだ
なぜ、あなたは、「寛大さ」と「聞くこと」を犠牲にしてまで
そんなものを手に入れようとしたのでしょうか
その理由を考えた時
やましいものしか出てこないのは
私の未熟さであると想いたい
運と縁との調和について
あらゆる関係性において、あなたができることは、半分までだと、知ってますか?
自分の手の及ばないところにコントロールを求めることは完全さへの渇望や、支配欲が見せる、まやかしであり、誘惑です。
人生を思い通りにしたい。とか、誰かに対して私の思うようにしてほしい。そのように思う時、その人は、自分にとって都合の良い世界を頑なに信じているのでしょう。
だからこういう人は、世界が発する縁とか運とかそういったエネルギーと調和を保つことが難しい。一人で全部を賄おう(支配)とするので。それら縁や、運が活躍しようとする機会を私の支配欲が侵食してしまうのです。
それとは違った「運」と「縁」を友達に、調和を奏でたい人は、自分が何を求めて、自分が何を遠ざけたいかの根拠をちゃんと知っていて、私の衝動に詳しく、自分の言いたいことや、愛する知識を持ちながら、私が理解できない新たな立場を決めつけることなく、時には知識を手放して理解を使い、学んでゆく。
また、理解の及ばないときは、ただ「待つこと」を選ぶ。
学びの際にも、表現の際にも、慎ましさや謙虚さの雰囲気を纏う。
そして、世界と仲良しに♫
完璧や最高でなくとも
あなたの何かが及ばないとしても
それは劣っていることではない
あなたの何かが「最高」でなくとも
捨て去ることをしなくていい
安心していい
その為に「不完全」には「成長」が組み込まれている
あなたの努力が住む場所は
いつだって「最高」と「最低」を使い分けることのできる
成長というステージです
だから安心して
愛するそれを続けなさい
それは無くならない
休むこと、離れることはあっても
決してなくならない
あなたが立ち上がれば、いつだって
そこは「成長」のステージです
私へと向かう私
あなたの目的は私を責めること
私はその攻めに支配されないよう味わうこと
あなたの目的は私を無視すること
私はその孤独の中であなたの成長を願うこと
あなたの目的は私を私を殺すこと
私は死を心地良く迎えられるよう過ごすこと
あなたの目的は私に愛されること
私は自らの愛の枯渇に配慮すること
あなたが何をしようが、私はそれを受け止めて
それでも私は、私で在れる
だから安心して
あなたはあなたの声を大事に聞いて
声の生まれた場所を訪ねてみて
きっとそこには
猛毒に囲まれ幸せを諦めかけたあなたが泣いている
知らせてあげて
この泣く力は
叫ぶ力に
きっとあなたの声に
そして必ずあなたの唄に進化する
そのうたを心から待ってる人がいる
人生という舞台もちゃんと待っている
だから
たくさん聞いて
うん。いいよ
城壁の外
私は何かを選ぶ
私以外の何かによって定義づけられた選択肢を疑いもせず
選択しかないと思い込み
辛さの中を生きることのできる自分を忘れ去り
成功の満足感や他人任せの無責任な賞賛が成長を欲望へと変化させ
失うことへの恐怖を増幅させるのに
奪われない。脅かされない鉄の城壁の中で永遠を生きようとする
「絶対」という口癖と共に私の内面が死を迎える
愚か者と幼子だけがその城壁から外へ出る
不幸と辛さが待ち構える外界へと
愚か者は躍るように不幸と辛さの友人になりながら
幼子は全てを糧に彼らを学び遂には彼らを先生にして
他人や世間の決めた価値を理解しながらも、愛することはあれど
決してそれに服従することはなく
彼らは徳の道を歩む
誰かの価値で道を閉ざしたものよ
絶対的な城壁の中から
愚か者と幼子を笑うがいい
それで間違いないと誰かが言ってくれるだろう
城壁から見下すことで価値を感じるものよ
安らかに死んだ豊かさに囲まれながら
愚か者と幼子を蔑むがいい
君は間違っていないと他人が認めてくれるだろう
ただ不幸にも、あなたが笑い蔑む愚か者と幼子は胸を張り
あなたの目を見て言うだろう
いつまでも見下してるんじゃねぇぞ…
愛しちゃうぞ
コノヤロウ
悪と共に
人の中には、いろんな部分があるものです。
時には、「悪」と呼ばれる部分も存在します。
「かまってほしい」
「人よりも優位に立ちたい」
「他人を支配したい」
「盛り上がるなら嘘をついてもいい」
「馬鹿にされたくない」
「傷つくなら、傷つけるほうがいい」
「すごい!と言われる、でかいことをしたい」
「俺は特別な人間」
「どうなってもいい」
「死んでもかまわない」
「嫌なことはなおさらだし、何もしたくない」
まぁ。。。。出てくるものです。 私の中にもたっぷりです。
そういった部分が見えない人。もしくは、無い人を人を、「善良な人」と、いうのでしょうか。
そうなると、私はかなりの悪人ですね。。。。先に書いたことは、ここ最近のカウンセリングで聞いた、声ですが、どうやら、私の中にも全部、ありそうです。
確かに、そういった悪めいたものがない人を「善良」と読んでいいように思います。
ただ、「善良」の条件はそれだけではないように思います。
自らの中に「悪」があることを知って、それら「悪」の叫びを受け止め、彼らの願いを叶えるために「らしさ」と「美しさ」を使った方法で、彼らの願いを叶える。
その時、その人は、「善良である。」という先の人の立場とは違い、「善良を獲得した人」であるのでしょう。
どうやら、私は、私の中に悪があるので、そちらを目指そうと思います。
悪よ安心してくれ
君が叫んだ想いを私は拾ってゆこう
暗い場所で気付かせてくれた私の道を
君が妬んだ美しさを愛でつつ
それが捨てざるをえなかった憧れであったことを思い出しながら
時に休み
時に脇道へと
「らしさ」の歌とともに
完全なる自由のために
共にいてくれ